イナシデス、歴史について、かく語りき
歴史は作り上げるものではない。自然と体験しているものである。
歴史を知っても、未来は変わらない。これまでの流れ通りの、道を行くだけである。
歴史のもしもは、最初は楽しい。最後は虚しい。
世界中の神話や歴史書を読めば、人間がいかに嘘つきか分かる。
歴史は、事実を知ることが大事なのではなく、普遍性を知ることこそ大事。
政治家は、歴史を学問以上のものにして、国民を洗脳してはならない。
遠い過去の事実は、一般的には忘れ去られてしまうだろう。しかし、その国が築き上げた歴史による、国民性はずっと残るだろう。
歴史的偉業は、名もなき人々の支えがあってこそ、実現する。
多くの素晴らしい偉人は、みんな口の固い隣人に恵まれている。
歴史も、どんな偉人がもてはやされるかも、今を生きる人間の都合が、強く反映されているだけ。
偉人とは、書物の中で出会うもの。
歴史書、この一冊に、人類の千年・二千年の出来事が記されているとは、到底思えない。
歴史書、途中、私が書き直したところで、誰も気付くまい。
神が歴史を書けばいい。そうしないと、誰もが納得出来る話にまとまらない。
私の歴史書。人間は、大体、同じようなことを世界中でしていた。以上。
今や、歴史家の仕事は、権力者や資産家の暇潰しの相手でしかない。
人類の歴史の主役は、明らかに戦争である。ゆえに?
予言。人類は進歩するだろう。そして、後退するだろう。
人類の歴史を確定するのは、人間が滅んでからすればいい。人間ではない、何らかの生き物が。
人間なんてちっぽけで、無情に過ぎ去っていく時間を、ただ見送ることしか出来ない。
イナシデス、宗教について、かく語りき
神を信じるということは、自分は強運だと信じているだけである。
運を神と思える者は、宗教に走る。神を運と思える者は、占いに走る。神も運も不条理としか思えない者は、虚無に陥る。
信仰と運の良し悪し、関係なし。
常に迷信を馬鹿にしながら、急に迷信が怖くなるのが、人間である。
最大の罪は、死をもたらすことではなく、相手の自尊心を奪うことである。
人の心は癒える。あるいは、癒えなくても生きてはいける。
人間、生きることに懸命であれば、死の不安なんて感じない。
罪の告白と愛の告白の共通点は、どちらも嘘が混じっている点である。
金持ちはそれだけで罪深く、天国へ逝けない。貧乏人は、実際に罪を犯すので、天国へ逝けない。
地獄へ落ちた方が妥当な者ほど、地獄生活について関心がない。
この世のことは、たいがい想像がつく。あの世のことは、ただの願望に過ぎない。
無を受け入れられないのは、ただの思い上がりである。
大人になるということ。幽霊より、人間の方が怖いと気付くこと。
宗教家もまた俗人である。聖人から俗気が抜けるのは、死後の時間のお蔭である。
宗教家、悪い職業。自分だけ反省すりゃいいのに、あちこち行って、知らない人まで巻き込む。
宗教家の仕事。別に宗教家にならなくても、出来ることばかり。
神によく祈る者、一転して、神に悪態つく可能性の低くない者。
宗教と闘ってはいけない。宗教とは人間の憐れさの象徴であって、それを責めたって仕方ない。
求めるな、どうせ与えられん。
最近の神の口癖。「もう、ウンザリ!」
イナシデス、幸福について、かく語りき
幸福は、色々捨ててから、やって来る。不幸は、色々と持ち過ぎるから、やって来る。
幸福は、日常の中にあるものであって、空想の中にあるものではない。
幸福は、掴んだ瞬間、幸福じゃないような気がしてくる。
自分だけの幸福は、うしろめたいばっかりで、次第に、幸福じゃなくなっていく。
何も起きないという幸福。そして、幸福という退屈。
計画を立てるのが好きな人、実現しなくても幸せな人。
面倒臭がりでいられる人、幸福な環境。
やたら忙しいのも、やたら暇なのも、幸福の証。
不幸な人、他人の悪い面より、良い面ばかり見て、自分を嘆く。
不幸な人ほど、小さな幸福を発見する能力がある。
不幸な人でも、基準だけ変えれば、不幸でもない人に変身出来る。
一瞬だけなら、どんな人生にも、輝きがある。
幸福な人ほど、無意識に自爆してしまうものである。
何かひとつ興味があれば、それが生きる理由になる。
花(人生・才能)は、いつも予告なしに開く。
欲張らない、憎まない、先のことは考えない。これを守るだけで、少しは気が晴れる。
幸福も不幸も、本当に強引な訪問者である。
長い幸福も、長い不幸も、どちらも、その後の幸不幸の物差しを狂わせる。
幸福な人は俗である。不幸な人は、もっと俗である。
幸福と思い込むのも知性なら、思い込めないのも知性である。