ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、芸術について、かく語りき

 

絵画の限界。海の絵なんて、退屈である。本物の海は、いつまで眺めていても、飽きない。

 

肖像画も宗教画も、ただのフィクションである。しかし、大衆の多くは、ありのままを信じている。

 

良い音楽は、決まって、どこか哀しい。表面的には、明るく楽しく聴こえる音楽も、良いものは、どこか哀しい。

 

美しい女は、芸術的である。ただし、彫刻ではなく、活け花である。

 

料理は、芸術である。しかも、自分の胃の中に閉じ込め、一体化出来る、贅沢さ。

 

最も良くない芸術は、独創性のないものである。どんなに、技術があっても、独創性がなければ、それは芸術品ではなく、観光地の土産物である。

 

芸術に倫理は要らない。しかし、倫理を否定すればするほど、その芸術が素晴らしくなる訳ではない。

 

私の好きな芸術は、作品に、作者の生命力や本能が宿っているもの、そして、それゆえのうしろめたさや苦悩が感じられるもの、つまり、人間らしさを感じさせるものである。

 

芸術は、自由に表現されるべきである。しかし、芸術家の生活が、どこまで自由であるべきかは、また、別の議題である。

 

破天荒な芸術家は、エピソードばかり多く、作品は意外と少ない。

 

芸術家は、貧しい家か、金持ちの家に育った方が良い。普通の家に育った者は、良くて二流にしか、ならないようだから。

 

金の入ってこない芸術家もいれば、金の入ってくる芸術家気取りもいる。前者は、時代に恵まれず、後者は、時代に恵まれただけ。

 

貧しい画家や詩人に尽くす女は、悪い母性の持ち主に過ぎない。そして、一般の母親同様、手間のかかった子供に、何らかの見返りを期待している。

 

大金が入るようになって、生活が荒れる芸術家は、三流である。また、この三流のことを、「アイツは変わった。駄目になった」と、嫉妬混じりに、あちこちで吹聴している芸術家は、三流以下である。

 

自作の解説ばかりしている芸術家は、一流ではない。だから、作品が何も語れていない。

 

芸術家を特別扱いする世の中になると、芸術家たちが勘違いするだけではなく、自分もなりたいと、普通の若者たちまでもが、勘違いをしだす。

 

芸術家は、髪を伸ばしたがる。哲学者は、髭を伸ばしたがる。浮浪者は、どちらも伸びている。

 

私は、芸術よりも、哲学が好きだという女に、出会ったことがない。

 

私の出会った芸術家は、八割がロクデナシで、残りの二割は、ヒトデナシであった。もちろん、悪い冗談である。

 

 芸術家に予算が回る国家は、尊敬すべき国家である。しかし、軍隊に予算が回る国家に攻め込まれたら、出来上がった作品は全て、献上する羽目になるだろう。

 

 

イナシデス、経済について、かく語りき

 

 国家は、世の中の富の分配機能として重要である。しかし、国家を牛耳る者たちは、誰も、その重要性に気付いていない。

 

 国家の経済の建て直しに必要なことは、まず、目先の利益にとらわれてばかりいる有力者を、説得することである。

 

 国家が、外国や、富裕な商人から、限界まで借金をし、その富を、世の中に回すことは、決して悪い策ではない。しかし、限界を超えていることに気付かず、借金をし続ければ、その富は、国境を越え、外国に回ってしまうだろう。

 

 世の中の景気を良くするのに、最も妥当な策は、金持ちに金を使わせることである。政治がやるより、はるかに合理的な、富の再分配となるだろう。

 

 ある国家に、良き経済を築き上げようとした時、国民に、どんな教育が必要か?物を買ったら、その代金を払うこと、金を借りたら、その金を返すこと、それだけでいい。

 

 犯罪者だらけの国家は、経済が振るわない。また、聖職者だらけの国家も、結果は同じである。

 

 外国との戦争に勝てば、国が富むなんて話は、国民が最も騙されやすい、嘘である。勝とうが、負けようが、多くの国民にとって、得られるのは、負担ばかりである。

 

 需給関係の乱れは、必ず、大きな物価の変動を招く。しかし、こんなものは、放って置いても、勝手に調整されていくだろう。早ければ、半年・一年で。遅くとも、数年で。そうでなければ、数十年で。

 

 商品の値上げばかりしている店は、どうせ、潰れる。商品の値下げばかりしている店は、同業者を困らせているうえ、裏では、必ず、悪いことをしている。

 

 外国との貿易で、大きな黒字が続くのは、決して、誉められたものではない。信用のない者に、金を貸し続けているのと、同じだから。

 

 外国との貿易で、大きな赤字が続くのは、決して、悪いことではない。信用(金)がないのに、外国からあれこれ、買い物しているようなものだから。

 

 貿易は、常に長期的な視野に立たなければいけない。自国の競争力のない業者の商品が、外国の商品に駆逐されたからといって、政治が干渉するようではいけない。

 

 植民地の連中に、最低限度の賃金を与えることを、惜しんではならない。人道的な問題というより、自国の労働者の職が、無くなってしまうから。

 

  労働しても、労働しても、貧しい者は、社会の犠牲者である。これは、全く労働しなくても、富める者がいることと関連した話である。また、この両者を仲介しているものを、金融と言う。

 

 良き経済が成立している国家は、個人が社会のために、社会が個人のために、金を使う均衡がとれている。

 

 人間というものは、愚かしいから、景気が悪ければ、それゆえに、景気が良ければ、それゆえに、悪いことをする。

 

 健康であれ。それで金持ちになれるかどうかは別にして、病気のせいで、借金だらけになる ことだけは、避けられる。

 

 金持ちになりたければ、信用のある者と付き合いなさい。貧乏人は、たいがい、信用ならない者とばかり、付き合っている。

 

 金を使わず、多額の遺産を残した金持ちは、経済を起因とする、社会不安をもたらす、戦犯である。それが言い過ぎたとしても、聡明さに欠ける人間であることは、間違いない。折角、金を得たのに、自分のためにも、世の中のためにも、使い道が思い付かなかったのだから。

 

 数字ばかり見て、経済を語るべきではない。本当に価値のあるものは、数値化なんて出来ないのだから。

 

 

 

 

イナシデス、死について、かく語りき

 

 死後の世界というものが、天国や地獄であって欲しくない。無の世界であって欲しいとも、思わない。この世の延長のようで、あって欲しい。

 

 もし、私の寿命が三ヶ月だったとしても、特にやることは変わらないだろう。ただ、暇があったら、何か思索しているだけだろう。

 

 人類は皆、神に裁かれし死刑囚である。また、神は裁判官として、有能とは言い難いところがある。

 

 死が、大昔から哲学の重要な命題であり続けたのは、誰も解明出来ていないからである。

 

 死んだら、どうなるのか?予習ばかりしている生徒は、先生(神)に、嫌われるかも知れない。

 

 死後の世界があると言い切る者も、ないと言い切る者も、本当は、自分の説を信じ切ってはいない。

 

 死を恐れる者は、地獄を恐れているのではなく、未知の世界を恐れている。

 

 自分が天国へ行けると思い込んでいる者、この世にいても、充分、幸せ者。

 

 死を全く恐れない者は、頭の中のどこかが故障しているだけである。

 

 死ぬ気になれば、何でも出来る。例えば、自殺だって出来る。

 

 病人が、やたら死を恐れるのは、死について考える時間が、あり余っているせいである。

 

 医師とは、紳士面した死神と思えなくもない。

 

 神父もまた、紳士面した死神と思えなくもない。

 

 前世、来世を人間が信じ込むのは、人間のさが、その悲しい合理主義ゆえである。合理主義の行き着く先が、非科学的世界とは・・・何て皮肉だろう!

 

 ある貧しい詩人は、生まれ変わったら、鳥になりたいと詩に書いた。私は、鳥なんぞに生まれ変わるくらいなら、人間の方がマシである。ただし、詩人以外の。

 

 私には、特に会いたい人物がいない。しかし、幽霊となら会ってみたいと思う。ただし、私が生きているうちにである。

 

 天国なんか行くより、この世に未練を残し、幽霊のまま、さまよっていたい気が、しないでもない。

 

 馬鹿は、死ななきゃ治らないのか?馬鹿は、死んでも治らないのか?それが問題だ。

 

 死と宇宙の関係について考えている。時間というものも絡ませて。

 

 生は、一瞬である。しかし、死は永遠である。いや、死も一瞬かも知れない。