イナシデス、性別について、かく語りき
男女平等以前に、あらゆる人間関係の中で、全く対等な関係性なんて、存在しない。
男女平等の推進は、双方の偶像性の破壊を伴い、男女ともに、損したり、得したりの話である。
男らしさも、女らしさも、イメージ先行の定義モドキに過ぎない。
男になりたがる女は、社会的責任を持ちたがっているのかも知れない。女になりたがる男は、社会的責任を放棄したがっているのかも知れない。
ある女が言った。「男だったら良かった」私は、納得した。彼女が、女として生きていくには、余りに、顔面がたくまし過ぎる。
ある男が言った。「女だったら良かった」私は、納得出来なかった。彼が、女として生きていくには、余りに、全身がたくまし過ぎる。
神が、人間の性別を、生まれる前に、選べるようにしても、結局、男女の比率は、五分五分になるような気がする。
つまらない男に引っ掛かる女、見栄っ張り。つまらない女に引っ掛かる男、情欲過多。
多趣味の男は、器用貧乏。多趣味の女は、すぐ、誰かの影響を受けている。
気質が、男寄りの女、女寄りの男、意外とモテる。
男らしい男は、同性に好かれるが、女らしい女は、同性に好かれない。
男は、自分の部屋を欲しがる。女は、家ごと欲しがる。
男の身勝手も、女の身勝手も、傾向が違うだけで、どちらも同じくらい、身勝手である。
女が女友達を裏切ってまで、男に尽くしても、男は女のために、男友達を裏切ったりしない。
女は男と、秘密を共有したがっている。しかし、男は女と、秘密を共有したがらない。
男は、別れた女のことまで心配してみせる。女はそれを、大きなお世話だと思っている。すでに、新しい男がいる場合は、特に。
厭世解釈。結婚は、男も女も、慣習の被害者である。しかし、最大の被害者は、子供であることを、忘れてはならない。
男の老いは、喜劇的だが、女の老いは、悲劇的である。最初、私はそう思ったが、お好みで入れ替えても、何の問題もない。
男が欲情のために、女を押し倒すことが大罪ならば、女が欲情のために、男を誘惑することも、せめて小罪くらいにするべきである。
世の中が進歩して、どれだけ男女平等が叫ばれるようになっても、少なくとも、性器ひとつ分の違いだけは、残り続けるだろう。
イナシデス、自由について、かく語りき
道徳は、自由の邪魔である。そう聞いて、納得した者は、空想的自由を求めている者であって、現実的自由を知る者ではない。
誰だって、頭の中は自由である。ゆえに、他人に知られたくないことばかり、考えている。
どんな自由が欲しい?と、訊かれて、すぐに思い付いたことは何か?それによって、その人の品性が分かる。
神いわく、「品のない者、恥を知らない者には、自由を与えたくない」
最も、品性下劣な自由。立場の弱い者、反発出来ない者に対して、つけこむ自由。
誰とも闘う意志のない者は、不自由であっても、仕方ない。
自由を与えられた者は、使い方をよく分かっていない。自由を勝ち取った者は、勿体なくて、あまり使おうとしない。
子供を躾せず、自由に育てれば、個性派になる。ただし、個性派兼嫌われ者に過ぎない。
子供を躾せず、自由に育てた場合でも、将来の、その子供の失敗が、ちゃんと、躾してくれるだろう。
不自由を体験していない人間の顔の、軽薄さ。自由を体験していない人間の顔の、貧乏臭さ。
自由に見える者、嫉妬されやすい。本当は、他人が思うほど、自由でもないのに。
良き忠告。自由を得た時ほど、遠慮しなさい。不自由な時こそ、図太くなりなさい。
女が売春をするのは、自由である。ただし、金のためにやるのではなく、適職だから、やるべきである。
もしかしたら、神は人殺しを容認しているかも知れない。しかし、人間社会は、これからも、容認することはないだろう。
本来、人間は自由な存在である。しかし、人間が集まれば、自由同士の対立・摩擦により、不自由にならざるえない。
自由のために、政治があるのではない。なるべく多くの国民に、不自由を感じさせないために、政治がある。
政府は、言論・芸術における表現の自由を認めるべきである。どうせ、大半の国民にとって、行使するに値しないのだから。
個人の自由を推す政党も、社会的協調を推す政党も、お題目だけという意味では、同じである。
自由な社会は、醜い現象がたくさん起きる。しかし、それでも、不自由な社会よりは、多少、マシである。
「自由、自由!」と、あまりにうるさい連中には、ぶん殴る自由を行使して、少し黙らせてやった方がいい。
イナシデス、芸術について、かく語りき
絵画の限界。海の絵なんて、退屈である。本物の海は、いつまで眺めていても、飽きない。
肖像画も宗教画も、ただのフィクションである。しかし、大衆の多くは、ありのままを信じている。
良い音楽は、決まって、どこか哀しい。表面的には、明るく楽しく聴こえる音楽も、良いものは、どこか哀しい。
美しい女は、芸術的である。ただし、彫刻ではなく、活け花である。
料理は、芸術である。しかも、自分の胃の中に閉じ込め、一体化出来る、贅沢さ。
最も良くない芸術は、独創性のないものである。どんなに、技術があっても、独創性がなければ、それは芸術品ではなく、観光地の土産物である。
芸術に倫理は要らない。しかし、倫理を否定すればするほど、その芸術が素晴らしくなる訳ではない。
私の好きな芸術は、作品に、作者の生命力や本能が宿っているもの、そして、それゆえのうしろめたさや苦悩が感じられるもの、つまり、人間らしさを感じさせるものである。
芸術は、自由に表現されるべきである。しかし、芸術家の生活が、どこまで自由であるべきかは、また、別の議題である。
破天荒な芸術家は、エピソードばかり多く、作品は意外と少ない。
芸術家は、貧しい家か、金持ちの家に育った方が良い。普通の家に育った者は、良くて二流にしか、ならないようだから。
金の入ってこない芸術家もいれば、金の入ってくる芸術家気取りもいる。前者は、時代に恵まれず、後者は、時代に恵まれただけ。
貧しい画家や詩人に尽くす女は、悪い母性の持ち主に過ぎない。そして、一般の母親同様、手間のかかった子供に、何らかの見返りを期待している。
大金が入るようになって、生活が荒れる芸術家は、三流である。また、この三流のことを、「アイツは変わった。駄目になった」と、嫉妬混じりに、あちこちで吹聴している芸術家は、三流以下である。
自作の解説ばかりしている芸術家は、一流ではない。だから、作品が何も語れていない。
芸術家を特別扱いする世の中になると、芸術家たちが勘違いするだけではなく、自分もなりたいと、普通の若者たちまでもが、勘違いをしだす。
芸術家は、髪を伸ばしたがる。哲学者は、髭を伸ばしたがる。浮浪者は、どちらも伸びている。
私は、芸術よりも、哲学が好きだという女に、出会ったことがない。
私の出会った芸術家は、八割がロクデナシで、残りの二割は、ヒトデナシであった。もちろん、悪い冗談である。
芸術家に予算が回る国家は、尊敬すべき国家である。しかし、軍隊に予算が回る国家に攻め込まれたら、出来上がった作品は全て、献上する羽目になるだろう。