イナシデス、国家について、かく語りき
国家は、極めて合理的な装置・機能であって、自分の意思を持っていない。
大きな集団でありながら、国家という装置・機能を活用しない集団は、山賊や海賊と変わらない、ならず者である。
国家は、全く機械的である。燃料になっているのは、予算であり、それを運んで来るのが、国民である。
国家は、いつも、どこかが故障している。そして、修理すべき状態にあっても、大体、放置されてしまうことが多い。
国民に、利益をもたらさない国家は、やがて、燃料不足に陥り、動かなくなる。
国民に尽くし過ぎる国家など、存在しない。国家は、常に、国民が運んで来た、燃料分しか動かない。
国家の歯車として、組み込まれた者は、その国家が動かなくなるまで、外してもらえなくなる。酷い時は、死ぬまで、自分の意思がなくなる。
国家の運転をしたがる者(政治家)、国家の歯車になりたがる者(公務員)、時代に恵まれなければ、きっと、後悔することになる。
王様は、国家の運転をする者として、ふさわしいとは限らない。それは、歴史が証明しているし、未来も証明してくれるだろう。
国家は、暴走したりしない。暴走するのは、国家の運転をする者か、国家を神輿代わりに、担ぎ出した国民である。
国家と個人は、対立しない。対立するのは、国家を利用したい、個人と個人である。
国家のために、とは、王様のために、を意味しない。国民の合理的利益のために、を意味する。
民主制は、国家をより合理的なものにするだろう。しかし、時には、独裁的な知恵者に任せた方が、上手くいくかも知れない。
ある政治家が、私に訊いた。「国家民主制とは、植民地の連中や、奴隷たちにも政治参加をさせるということか?」、私は即座に答えた。「その通り。そうしなければ、植民地は独立してしまうし、奴隷は何処かに、奴隷の国家を建設することになるでしょう」
ある政治家が、私に訊いた。「国家百年の計について教えて欲しい」、私は即座に答えた。「百年先のことは、百年先の人々に任せて、我々は、今の時代の話をしましょう」
ある政治家が、私に訊いた。「我が国を戦争の強い国にするには、どうしたらいい?」、私は即座に答えた。「全ての子供に良い教育をすることです。知恵者は、良い武器も考えつくし、良い作戦も考えつくし、金を稼ぐのも集めるのも、上手ですから」
ある政治家が私に訊いた。「国家に忠誠を尽くさせる教育について考えて欲しい」、私は即座に答えた。「戦争をするためですか?それとも、税金を取るためですか?」、「両方だ」、「残念ながら、人間は、戦争には行きたがらないし、税金も払いたがらないものです。それを過度に推し進めることは、教育ではなく、恐喝です」
国家は、大き過ぎるより、小さいくらいの方が良い。ただし、隣国に攻め込まれる心配が、なければの話である。
良い国家の第一条件とは、領土が広く、人口と兵士が多くいる国のことではない。ちゃんと、人口と兵士が養えた上で、領土が守れる国のことである。
国家的利益とは、その国家に属する者全ての利益でなければいけない。その定義が正しいとすれば、国家的利益とは、ただの机上の空論である。
イナシデス、性別について、かく語りき
男女平等以前に、あらゆる人間関係の中で、全く対等な関係性なんて、存在しない。
男女平等の推進は、双方の偶像性の破壊を伴い、男女ともに、損したり、得したりの話である。
男らしさも、女らしさも、イメージ先行の定義モドキに過ぎない。
男になりたがる女は、社会的責任を持ちたがっているのかも知れない。女になりたがる男は、社会的責任を放棄したがっているのかも知れない。
ある女が言った。「男だったら良かった」私は、納得した。彼女が、女として生きていくには、余りに、顔面がたくまし過ぎる。
ある男が言った。「女だったら良かった」私は、納得出来なかった。彼が、女として生きていくには、余りに、全身がたくまし過ぎる。
神が、人間の性別を、生まれる前に、選べるようにしても、結局、男女の比率は、五分五分になるような気がする。
つまらない男に引っ掛かる女、見栄っ張り。つまらない女に引っ掛かる男、情欲過多。
多趣味の男は、器用貧乏。多趣味の女は、すぐ、誰かの影響を受けている。
気質が、男寄りの女、女寄りの男、意外とモテる。
男らしい男は、同性に好かれるが、女らしい女は、同性に好かれない。
男は、自分の部屋を欲しがる。女は、家ごと欲しがる。
男の身勝手も、女の身勝手も、傾向が違うだけで、どちらも同じくらい、身勝手である。
女が女友達を裏切ってまで、男に尽くしても、男は女のために、男友達を裏切ったりしない。
女は男と、秘密を共有したがっている。しかし、男は女と、秘密を共有したがらない。
男は、別れた女のことまで心配してみせる。女はそれを、大きなお世話だと思っている。すでに、新しい男がいる場合は、特に。
厭世解釈。結婚は、男も女も、慣習の被害者である。しかし、最大の被害者は、子供であることを、忘れてはならない。
男の老いは、喜劇的だが、女の老いは、悲劇的である。最初、私はそう思ったが、お好みで入れ替えても、何の問題もない。
男が欲情のために、女を押し倒すことが大罪ならば、女が欲情のために、男を誘惑することも、せめて小罪くらいにするべきである。
世の中が進歩して、どれだけ男女平等が叫ばれるようになっても、少なくとも、性器ひとつ分の違いだけは、残り続けるだろう。
イナシデス、自由について、かく語りき
道徳は、自由の邪魔である。そう聞いて、納得した者は、空想的自由を求めている者であって、現実的自由を知る者ではない。
誰だって、頭の中は自由である。ゆえに、他人に知られたくないことばかり、考えている。
どんな自由が欲しい?と、訊かれて、すぐに思い付いたことは何か?それによって、その人の品性が分かる。
神いわく、「品のない者、恥を知らない者には、自由を与えたくない」
最も、品性下劣な自由。立場の弱い者、反発出来ない者に対して、つけこむ自由。
誰とも闘う意志のない者は、不自由であっても、仕方ない。
自由を与えられた者は、使い方をよく分かっていない。自由を勝ち取った者は、勿体なくて、あまり使おうとしない。
子供を躾せず、自由に育てれば、個性派になる。ただし、個性派兼嫌われ者に過ぎない。
子供を躾せず、自由に育てた場合でも、将来の、その子供の失敗が、ちゃんと、躾してくれるだろう。
不自由を体験していない人間の顔の、軽薄さ。自由を体験していない人間の顔の、貧乏臭さ。
自由に見える者、嫉妬されやすい。本当は、他人が思うほど、自由でもないのに。
良き忠告。自由を得た時ほど、遠慮しなさい。不自由な時こそ、図太くなりなさい。
女が売春をするのは、自由である。ただし、金のためにやるのではなく、適職だから、やるべきである。
もしかしたら、神は人殺しを容認しているかも知れない。しかし、人間社会は、これからも、容認することはないだろう。
本来、人間は自由な存在である。しかし、人間が集まれば、自由同士の対立・摩擦により、不自由にならざるえない。
自由のために、政治があるのではない。なるべく多くの国民に、不自由を感じさせないために、政治がある。
政府は、言論・芸術における表現の自由を認めるべきである。どうせ、大半の国民にとって、行使するに値しないのだから。
個人の自由を推す政党も、社会的協調を推す政党も、お題目だけという意味では、同じである。
自由な社会は、醜い現象がたくさん起きる。しかし、それでも、不自由な社会よりは、多少、マシである。
「自由、自由!」と、あまりにうるさい連中には、ぶん殴る自由を行使して、少し黙らせてやった方がいい。