ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、夫婦について、かく語りき

 

 夫婦とは、あらゆる秘密を共有する関係である。妻が夫の浮気を許せないのは、その秘密が、自分以外の女に、漏れた気分になるからである。

 

 また、それゆえ、妻が容認する愛人とは、一緒に秘密を共有出来ると感じた者に限られる。

 

 一流の悪女は、ちゃんと男と秘密を共有出来る。それゆえ、妻にするのも、愛人にするのも、悪女に限る。

 

 妻が浮気するケースの八割は、夫のせいである。夫が浮気するケースの八割は、妻のせいではなく、夫が男であるせいである。

 

 夫が浮気をした場合、妻にとって、最も重要なことは、誰かをどう責めるかではなく、夫と、別れるべきか否かを決めることである。

 

 妻が浮気をした場合、夫にとって、最も重要なことは、誰かをどう責めるかではなく、傷付いた自分の自尊心を、どう回復させるかである。

 

 まだ、若い夫の老いは、たいがい、遺伝のせいである。まだ、若い妻の老いは、たいがい、家庭のせいである。

 

 誰もが羨む良い夫婦は、お手本ではなく、ただのイヤミである。

 

 一見して、誰もが羨む良い夫婦は、よく観察すると、二つの大きな虚栄心の塊でしかない。

 

 嘘つき夫婦は、仲良し夫婦。正直夫婦は、ケンカばかり。

 

 聡明な妻は、自分を無くしたフリをして、家庭ごと、自分色に染めてしまう。

 

 料理が下手だと自覚のある妻は、いちいち「美味しい?」と訊いてこないので、悪くない。

 

 やたらと掃除が好きな妻は、ただ、暇を持て余しているだけの妻かも知れない。

 

 やたらと噂話が好きな妻は、意外と、自分自身の評判を知らない。

 

 欲求不満の妻たちの第一の楽しみは、何と言っても、自分の夫以外の男と結婚していたら・・・と、無駄な空想することである。

 

 男は、家庭における妻の役割なんて、たいがい金で買えると思っている。女は、家庭における夫の役割なんて、元から、ないと思っている。

 

 一番好きな男(女)と結婚するのは、理想的な結婚ではなく、男(女)に対する理想を、失っていく結婚である。

 

 人生は算数ではないので、貧しい男と、貧しい女が、結婚しても、資産が増える(プラス)どころか、借金(マイナス)が出来てしまうこと、少なくなし。

 

 子供が出来て、やたらと態度が大きくなる妻は、やがて子供を武器にして、夫に、挑戦状を叩き付けて来るだろう。

 

 イカシタ妻と、イカレタ妻は、大体、同じ気質である。

 

 

 

 

イナシデス、人生について、かく語りき

 

 人生に意味があるとしたら、それは、こじつけでしかなく、意味がないとするのも、こじつけでしかない。

 

 命懸けの人生と聞くと格好良いが、よく考えてみると、誰の人生であっても、死ぬ前までの行為は、全て、命懸けである。

 

 人生の転換期は、予言出来るものではなく、後で気付くものである。

 

 別に、占い師じゃなくても、貴方の人生の悩みくらい分かる。人間関係か、金か、健康の問題だろう。

 

 楽しい人生は、時折、虚しい。苦しい人生は、いつも虚しい。

 

 自分らしい人生を貫くということは、嫌われ者の人生を歩むことと、ほぼ一緒である。

 

 夢のある人生とは、無理をする人生のことである。

 

 愛というものを、お節介と解すれば、あらゆる全ての人生に、愛は溢れている。

 

 人生は何度でも、やり直せる。やり直す度に、目標を小さくすれば。

 

 人生が二度あったところで、一度目より、成功する保証はない。

 

 人生が三度あっても、心底、本気になれるのは、三度目だけだろう。

 

 他人の人生に関わることは、負担を増やすことでしかない。私はそれを、結婚することで知った。

 

 結婚は人生の墓場ではない。地獄の入り口である。

 

 子供の人生の成功を願わない親はいない。何しろ、親は子供が、必ず、恩返ししてくれると思い込んでいるから。

 

 死について考えることの短い人生は、忙しい人生。死について考えることの長い人生は、暇な人生。

 

 人生で大切なことは・・・あるようで、ない。ないようで・・・やはり、ない。

 

 人生は、いつ死んでもいいと思えてからが長い。

 

 宗教家の語る人生の教えは、書物の中の教えに過ぎない。それも、嘘がたくさん書かれている書物の。

 

 正しい人生とは、「猫が鼠を捕まえ、食べ、生きながらえました」という話でしかない。つまり、正しいようで、結局、罪深い。

 

 私が思う、幸福な人生とは、好きなものを食べ、好きなものを飲んでいるのに、健康で、程々に長生きする人生である。

 

 

 

イナシデス、国家について、かく語りき

 

 国家は、極めて合理的な装置・機能であって、自分の意思を持っていない。

 

 大きな集団でありながら、国家という装置・機能を活用しない集団は、山賊や海賊と変わらない、ならず者である。

 

 国家は、全く機械的である。燃料になっているのは、予算であり、それを運んで来るのが、国民である。

 

 国家は、いつも、どこかが故障している。そして、修理すべき状態にあっても、大体、放置されてしまうことが多い。

 

 国民に、利益をもたらさない国家は、やがて、燃料不足に陥り、動かなくなる。

 

 国民に尽くし過ぎる国家など、存在しない。国家は、常に、国民が運んで来た、燃料分しか動かない。

 

 国家の歯車として、組み込まれた者は、その国家が動かなくなるまで、外してもらえなくなる。酷い時は、死ぬまで、自分の意思がなくなる。

 

 国家の運転をしたがる者(政治家)、国家の歯車になりたがる者(公務員)、時代に恵まれなければ、きっと、後悔することになる。

 

 王様は、国家の運転をする者として、ふさわしいとは限らない。それは、歴史が証明しているし、未来も証明してくれるだろう。

 

  国家は、暴走したりしない。暴走するのは、国家の運転をする者か、国家を神輿代わりに、担ぎ出した国民である。

 

 国家と個人は、対立しない。対立するのは、国家を利用したい、個人と個人である。

 

 国家のために、とは、王様のために、を意味しない。国民の合理的利益のために、を意味する。

 

 民主制は、国家をより合理的なものにするだろう。しかし、時には、独裁的な知恵者に任せた方が、上手くいくかも知れない。

 

 ある政治家が、私に訊いた。「国家民主制とは、植民地の連中や、奴隷たちにも政治参加をさせるということか?」、私は即座に答えた。「その通り。そうしなければ、植民地は独立してしまうし、奴隷は何処かに、奴隷の国家を建設することになるでしょう」

 

 ある政治家が、私に訊いた。「国家百年の計について教えて欲しい」、私は即座に答えた。「百年先のことは、百年先の人々に任せて、我々は、今の時代の話をしましょう」

 

 ある政治家が、私に訊いた。「我が国を戦争の強い国にするには、どうしたらいい?」、私は即座に答えた。「全ての子供に良い教育をすることです。知恵者は、良い武器も考えつくし、良い作戦も考えつくし、金を稼ぐのも集めるのも、上手ですから」

 

 ある政治家が私に訊いた。「国家に忠誠を尽くさせる教育について考えて欲しい」、私は即座に答えた。「戦争をするためですか?それとも、税金を取るためですか?」、「両方だ」、「残念ながら、人間は、戦争には行きたがらないし、税金も払いたがらないものです。それを過度に推し進めることは、教育ではなく、恐喝です」

 

 国家は、大き過ぎるより、小さいくらいの方が良い。ただし、隣国に攻め込まれる心配が、なければの話である。

 

 良い国家の第一条件とは、領土が広く、人口と兵士が多くいる国のことではない。ちゃんと、人口と兵士が養えた上で、領土が守れる国のことである。

 

 国家的利益とは、その国家に属する者全ての利益でなければいけない。その定義が正しいとすれば、国家的利益とは、ただの机上の空論である。