イナシデス、愛人について、かく語りき
大半の愛人は、略奪愛を狙っている訳ではない。好きな男の妻との、分割愛を望んでいる。
妻は、愛人に勝ちたがる。愛人は、引き分けでも構わない、と思っているのに・・・。
憂鬱な愛人の顔は、美しい。お気楽な妻の顔よりも、ずっと・・・。
妻は、愛人に「図々しい」と、罵る権利がある。愛人は、妻に「図々しい」と、思う権利しかない。
妻は、夫の愛人を憎むより、自分を磨いた方がいい。ただし、たいがいの妻は、時すでに遅し・・・。
愛人が一人しかいない男は、愛人が複数いる男より、罪深いところが、ないとは言えない。
愛人生活には、秋が似合う。夏や冬も、似合わないことはない。しかし、何故だか、春だけは似合わない。
愛人生活に、ゴール(結婚)はない。あるのは、リタイア(諦め)だけである。しかし、例外もあるから、多くの愛人が、勘違いをしている。
結婚を望む愛人は、独身の、二番目に好きな男を探す方が、合理的である。
子供好きの愛人の苦悩・・・神の悪戯。
子供を欲しがることで、相手の男の愛情を計ろうとする愛人は、危険人物の可能性がある。
自殺をほのめかすことで、相手の男の愛情を計ろうとする愛人は、危険人物である。
愛人が、相手の男に、自殺をほのめかすことは、別れの切っ掛けにしかならず、まさに、自殺行為である。
世の中に、愛人養成学校というものがあるならば、最初の授業で習う教訓は、「自分の立場をわきまえなさい」だろう。
妻子ある男と愛人の恋愛も、結婚を約束した男女の恋愛も、やること自体は、大して変わりはしない。
長く続いた愛人関係には、金や性愛を超えた、深い絆も、あるに違いない。
死ぬまで、一人の男の愛人として生きた女の愛情が、死ぬまで、一人の男の妻として生きた女の愛情より、劣るとは、言い切れない。
男も、その妻も、愛人も、みんな、自分の価値を、過大に評価している場合が多い。
男にだって、下手に家庭なんか持つより、富裕な女の愛人になった方がいい、と思うことはある。
妻と愛人の修羅場は、ただの喜劇である。それを誰もが、悲劇のように考えているため、その認識の誤りから、本当の悲劇が起きてしまう・・・。
イナシデス、名言について、かく語りき
新しい名言など、存在しない。全ての名言は、誰かの使い古しに過ぎない。
Aという国で生まれた名言は、どうせ、Bという国でも、Cという国でも、別の誰かが言っている。
誰だって、長い人生の中で、一度や二度は、名言を吐いている。ただし、誰も覚えてはいやしない。
名言を生み出す、人間の基礎は、長い不幸を、経験することにある。
逆説的名言を、よく言う者は、とにかく、あらゆる、言い訳が巧い。
誰にでも通用する名言は、よく考えると、言われなくても、分かっている話に過ぎない。
会話の達人とは、常に、小さな名言を、生み出し続けている者のことである。
多弁な者より、口数の少ない者の方が、意外と、名言を貯め込んでいるものである。
含蓄のある名言は、少なくとも、「含蓄がありますね」という台詞を、相手から引き出すのに、役に立つ。
良い名言は、詩のように聞こえ、悪い名言は、説教のようにしか、聞こえない。
英雄の名言なんてものは、たいがい、その周辺の者か、その後の歴史家が作っている。
恋に関する名言は、若き美女がたちが、生み出すのではない。たいがい、老いた年寄りたちが、生み出している。
夫婦生活の名言は、たいがい、晩年に生まれる。新婚生活中に生まれるのは、残念ながら、他人の失笑だけである。
知識のない者から、偶然、出て来た名言は、なかなか、味わい深いものが多い。
狂人を観察するのは、面白い。彼らは、時折、常人には思いつけない、名言を吐くから。
役に立ちそうな名言より、役に立ちそうにない、珍言や暴言の方が、面白さでは、上である。
名言の拡がりは、悪口の拡がりには劣るが、時代を超えてゆくのは、悪口ではなく、名言の方である。
名言を愛する者は、知的な者というよりは、知的に思われたい者であることが多い。
全ての哲学者の名言を知ったところで、哲学者になれる訳ではない。
ただの理屈でしかない名言は、人を感心させることは出来ても、その人の将来まで、変えさせることは出来ない。
イナシデス、成功について、かく語りき
ただの結果論に過ぎない、成功者の言葉を、長時間、聞いていられる者は、きっと、成功しない。
全てのチャンスは、一度切りである。二度目のチャンスは、別のチャンスでしかないから。
成功への道標とは、小さい目標を、いくつも持つ、ということである。
あれもこれも、何もかも欲しがる者は、成功しない。
あれもこれも、何もかも要らない者は、成功しても、意味がない。
人生の丁半博打を避けたがる者は、成功者にも、失敗者にもなれない。
成功も失敗もしない人生を歩んだ者は、どちらかと言えば、成功者である。
失敗は、成功のもとかも知れないし、大失敗のもとかも知れない。
時間を気にしない者は、成功しない。時間を気にし過ぎる者は、忙しない。
理念なき成功者ほど、他人の理念を、自分のもののように語るようになる。
全く、無計画なまま、成功した者ほど、自分の運の良さを、否定したがる。
成功の実感のない成功は、自分で考え、つかんだ成功ではないからである。
親孝行だから、成功したのではない。成功した者は、親孝行したくなるのである。
残念ながら、道徳なき成功者が、その実績を、正当に評価されるようになるのは、きっと、死後のことである。
成功後、もう一段、上を目指すか?それとも、現状維持を心掛けるか?それが、問題だ。
良い成功者は、次世代の成功者を育てる。悪い成功者は、次世代の成功者の芽を摘みたがる。
成功したかどうかは、他人(世間)が決めることではなく、自分が、納得出来たかどうかの、問題である。
失敗している自覚のない者も、成功者の一人と考えれば、世の中は、成功者ばかりになる。
明らかな社会的成功者が、そのまま、幸福な個人とは限らないという、皮肉。
人間は、死の間際まで、健康であったというだけで、半分は、成功者である。