イナシデス、死について、かく語りき
死後の世界というものが、天国や地獄であって欲しくない。無の世界であって欲しいとも、思わない。この世の延長のようで、あって欲しい。
もし、私の寿命が三ヶ月だったとしても、特にやることは変わらないだろう。ただ、暇があったら、何か思索しているだけだろう。
人類は皆、神に裁かれし死刑囚である。また、神は裁判官として、有能とは言い難いところがある。
死が、大昔から哲学の重要な命題であり続けたのは、誰も解明出来ていないからである。
死んだら、どうなるのか?予習ばかりしている生徒は、先生(神)に、嫌われるかも知れない。
死後の世界があると言い切る者も、ないと言い切る者も、本当は、自分の説を信じ切ってはいない。
死を恐れる者は、地獄を恐れているのではなく、未知の世界を恐れている。
自分が天国へ行けると思い込んでいる者、この世にいても、充分、幸せ者。
死を全く恐れない者は、頭の中のどこかが故障しているだけである。
死ぬ気になれば、何でも出来る。例えば、自殺だって出来る。
病人が、やたら死を恐れるのは、死について考える時間が、あり余っているせいである。
医師とは、紳士面した死神と思えなくもない。
神父もまた、紳士面した死神と思えなくもない。
前世、来世を人間が信じ込むのは、人間のさが、その悲しい合理主義ゆえである。合理主義の行き着く先が、非科学的世界とは・・・何て皮肉だろう!
ある貧しい詩人は、生まれ変わったら、鳥になりたいと詩に書いた。私は、鳥なんぞに生まれ変わるくらいなら、人間の方がマシである。ただし、詩人以外の。
私には、特に会いたい人物がいない。しかし、幽霊となら会ってみたいと思う。ただし、私が生きているうちにである。
天国なんか行くより、この世に未練を残し、幽霊のまま、さまよっていたい気が、しないでもない。
馬鹿は、死ななきゃ治らないのか?馬鹿は、死んでも治らないのか?それが問題だ。
死と宇宙の関係について考えている。時間というものも絡ませて。
生は、一瞬である。しかし、死は永遠である。いや、死も一瞬かも知れない。