イナシデス、ケンカについて、かく語りき
「若い頃は、ケンカが強かった」と自慢したがる老人は、別に、嘘をついている訳ではない。実際、強かったのである。少なくとも、今よりは。
大半のケンカの原因は、まず、そのケンカの大きさと、釣り合わないのが普通である。
まともな人間同士のケンカなら、まず、殺し合いにまで、発展することはない。
少しくらい、ケンカが強いからといって、王様(政治的権力)を倒せる訳ではない。
1対1のケンカと比べて、集団のケンカは醜い。その代表が、戦争である。
私が出会った、ケンカ500戦無敗と言われた男は、残念ながら、10までしか、数の勘定が出来ない男だった。
ケンカで無敗の男になりたかったら、誰にもケンカを売らず、誰からのケンカも買わないことである。
「ケンカするほど、仲が良い」というよりは、「ケンカするほど、傍にいる」といった方が、正確である。
英雄と云われる者の人生には、程々の数のケンカは、つきものである。
長い付き合いの中で、1度も、ケンカをしたことのない関係は、大した関係ではない。
ケンカをして、後悔するのは、その相手が、自分にとって、大事な人だからである。
ケンカ相手との、本来の関係が良ければ、仲直りしたいタイミングは、同じはずである。
親子喧嘩で、父親が息子に負けるのは、教育に失敗したから、と言わざる得ない。
兄弟喧嘩で、兄が弟に負けるのは、弟の人間性に問題があるから、と言わざる得ない。
相手の自尊心について、考えてやれない者は、ケンカなどするものではない。
勝つか負けるか、分からないケンカ以外、やるべきではない。
負けてもいいと思って、ケンカをするくらいなら、最初から、謝ってしまった方がいい。
勝つことにこだわって、卑怯者になるくらいなら、負けてしまった方がいい。
全てのケンカは、自尊心の問題と関係している。
たいがいの夫婦喧嘩は、他人から見て、八百長みたいなものである。
イナシデス、罪と罰について、かく語りき
人間は、例外なく、罪深い。だから、例外なく、死という罰がある。
罪とは何か?何のための罰か?神さえ、定義することを、忘れているように思える。
人間は、一応、罪と罰の均衡について考えているが、神の方は、さほど、気にしていないように思える。
「この世に、法がなければ、罪もない」と、定義出来なくもない。
人間は、神を信用していないから、法なんて作り上げる。
些細な罪は、お互い様である。
「些細な罪は、お互い様」が分からない政治家は、法ばかり作っている。
罪を犯すこと自体、罰である。
罰から、逃れようとする状況も、罰である。
罰を与えようとすること自体、罪である。
法も、正義も、結構、罪深い。
罪に対して、無神経な者ほど、罰を受ける時は、神経質になる。
人殺しの罰が死刑なら、罰を執行した者も、死刑であり、やがて、人類は、地球上で、一人だけになってしまうだろう。
人間が、罪を犯すのは、別に、罰の問題とは関係がない。
罰が執行されたからといって、別に、被害者が失ったものが、戻って来る訳ではない。
罰を受けたからといって、別に、罪が消える訳ではない。
死ぬ間際、いくつも、自分の罪を思い出せる人間は、むしろ、誠実である。
大衆は、いつも、誰かを罰しようとしている。
大衆は、いつも、罪を犯した誰かの身内まで、ついでに、罰しようとしている。
恋愛は、罪深く、結婚とは、その罰のことである。
イナシデス、尊敬について、かく語りき
誰かが誰かに、「尊敬しています」と言う時は、たいがい、社交辞令である。
尊敬出来る恋人像など、考える必要はない。好きになってしまえば、それが答えだから。
誰かを尊敬するということは、何らかの理由によって、評価方法が寛大になっている、ということである。
人の悪口を言わない者も、言い過ぎる者も、尊敬出来ない。
断ることが出来ない者も、断り方を考えない者も、尊敬出来ない。
人の尊敬を集めるには、どうしたらいいかばかり、考えている者は、この時点で、尊敬出来ない。
誰からも尊敬を集めたい人間は、段々と、善行と悪行の区別さえも、つかなくなっていく。
やたらと、他人を軽蔑したがる者は、誰からも尊敬されない、というより、好かれもしない。
たいがいのインテリは、知恵がなく、ユーモアがなく、知識も偏っていて、全く、尊敬には値しない。
人間は、身体的に強いか、弱いかで、尊敬出来るか、出来ないかが、決まる訳ではない。
尊敬に値する行為をした者も、誉め過ぎると、やがて、駄目な人間になる。
尊敬に値する行為をした者も、その動機は、誉められたものじゃないことが、少なくない。
世間から、尊敬されやすい仕事をしている者ほど、実は、尊敬に値しない性格をしている。
大勢の愚か者の尊敬を集めたために、一番、大切な人物から、軽蔑を受けるような結果は、意外にある。
多くの愚か者は、資産家というだけで、その人を尊敬(あるいは軽蔑)してしまうものである。
王室を、やたらと尊敬する者は、要するに、「秩序ある社会」を尊敬しているのだろう。
神以外、尊敬する者がいない者は、思い上がった人間である。
神さえも、尊敬出来ない私は、誰よりも、思い上がった人間のようで、実は、そうでもない。
私のような者でも、多くの人に、感謝することは出来る。しかし、尊敬までに至ったことはない。
私のような者でも、尊敬に値する行為があることは認める。しかし、尊敬に値する人物がいることは、認めがたい。