イナシデス、夢と希望について、かく語りき
他人の夢が叶った話は、他人が寝て見る夢と同じように、聞きたくもない。
夢を叶えた人間の話を聞いても、大して羨ましく感じないのは、その夢が、自らの夢とは、別のものだからである。
他人の夢を聞くのが好きな者は、自分の夢は、語りたがらない者が多い。
すぐ叶う夢は、夢ではない。いつか叶う夢は、夢ではない。叶わないものだけが、夢である。
プロセスの想像出来ない夢は、まさに、夢でしかない。
夢を持っていない者は、自己を過小評価しているというより、夢というものを大袈裟に、考え過ぎている者である。
夢をたくさん、持っている者は、夢とは何か?全く、定義していない者のことである。
結婚に夢を見ている者は、それが悪夢だと気付くまでに、そう時間はかからないだろう。
独身の結婚適齢期にある女は、夢のある男に近寄ってはならない。近寄っていいのは、若い女か、年取った女に限る。
夢のない者は、夢破れた者を、皮肉る権利を持っている。夢のある者は、夢破れた者を、慰める義務を負っている。
自己を客観評価、出来なくなれば、夢は無限に拡がっていくだろう。
いつまで経っても、夢を持ち続けている者は、きっと、大事な何かを持ち忘れている。
無能かつ魅力のない者が、夢見がちな場合、それは、周囲の混乱要因でしかない。
叶わない夢なら、持つな?叶いそうな夢なら、持つな?結局、夢なんて持つな?
不幸な国にある希望は、正確に言うと、願望ばかりである。
幸福な国の作り方は、国民に希望を持たせることよりも、諦念を持たせることかも知れない。
生きている限り、絶望的な状況はあったとしても、絶望そのものはない。
生きる希望が湧いてくるということは、結局、何らかの欲が出てきたというだけのことである。
希望は、取り敢えず、言って置け。夢は、取り敢えず、心の中にしまって置け。
「夢も希望もない」が、口癖の者は、案外、幸せそうな顔をしている者が多い。