イナシデス、優しさについて、かく語りき
優しさとは、手伝うことでも、励ますことでも、与えることでもなく、相手を理解しようとする心である。
優しさについて、きちんと、考えたことのない人ほど、世間的には、優しい人で通っている。
他者と、失礼がないように交際しようと、心掛けている者は、周囲から、優しい人間だと、評価されにくい。
完全に自立している人間は、他人に対して、あまり、優しくはない。
たいがいの行為は、優しいとも言えないし、優しくないとも言えない。
ほどほどの分からない人間は、真の優しさについても、永遠に、分からない。
自分の優しさを疑え。他人の優しさを疑うな。
心に余裕のない人の優しさは、見返りを気にしてする、優しさである。
あの人・・・誰に対しても、優しい人に見えるが、本当は、いやらしい、優先順位に囚われている。
あらゆる優しさは、打算に過ぎない。しかし、だからといって、全面的に否定する必要もない。
たとえ、打算的な優しさであっても、人を感動させることは出来る。
優しい人になりたいのではなく、優しい人と思われる人になりたいのであれば、ただ、ひたすら、いやらしい人を目指せばよい。
あなたに対して、過度に優しい人たちは、きっと、あなたを、堕落させたいに違いない。
優しさほど、誰かを洗脳するのに、便利な道具はない。
優しさは、時に、暴力よりも、酷い結果を招く。
あなたの子供が優し過ぎれば、大成しないだろう。あなたの子供が、優しくなくても、大成しないだろう。しかし、最も重要なことは、あなたの子供が大成しないのは、あなたの子供だからという、遺伝の現実である。
みんなが、老人に優しくするのは、間接的に、隠居を勧めているからである。
別に、人に優しく出来なくとも、人に余計なことさえしなければ、それでいい。
世の中に、優しさが必要不可欠なのは、人間の大多数が、バカらしいほど、単純に出来ていることの裏返しである。
神が、人間に対して、優しいと思い込むのは、全くもって、知的なことではない。