ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、美食(グルメ)について、かく語りき


 何もかけないで、食べた方が美味いものに、美食家は、取り敢えず、理屈を振りかけてしまう。


 美食家の味のたとえは、たいがい、仲間内で、使い回していたものである。


 ある美食家は言う。「この果実は、太陽の味がする」と。それは、焦げ臭いという意味だろうか?


 美味いか、不味いか、答えは、ふたつにひとつでしかないのに、やたらと、勿体ぶってみせるのが、美食家というものである。


 国家の現状なんて、訊いてもないのに、勝手に演説を始めるのが、政治家なら、料理の感想なんて、訊いてもないのに、勝手に演説を始めるのが、美食家というものである。


 美食家は、料理の値段が高いことを、やたら、嬉しがる。特に、それを誰かに、御馳走している時は。


 美食家は、1時間で作れる料理を、1日かけて作ると、何故か、嬉しがる。


 美食家が、ワインAとワインBを(更に、ワインCを)、飲み分けることが出来たところで、そんなものは、ただの宴会芸に過ぎない。


 その牛肉が、かたかろうと、やわらかろうと、それに見合った回数だけ、噛めばよい。


 美食家が嫌われる、最大の理由は、他人の食べ方まで、干渉するからである。


 私は、美食家が嫌いなのではない。美食家を気取る者が、嫌いなのである。


 多くの美食家は、空腹になる前に、何かを食べている。それこそ、味が分からない証拠である。


 富裕な美食家だって、空腹ならば、庶民の料理を食べるだろう。いただきますの代わりに、自分の虚栄心を守るための、何らかの理屈を言ってから。


 未来の良い料理人を育てるのは、良い料理(過去の良い料理人)であって、美食家ではない。


 美食家が育てるのは、料理人ではなく、自分の頬や腹である。


 究極の美食を求める者は、喜劇的である。普通、誰も食べたくないような、珍味を欲しがるようになるから。


 究極の美食を求める者は、悲劇的である。若くして健康を害し、そのまま、死んでしまう確率が上がるから。


 ある美食家は言う。「料理は芸術である」と。私は思う。「そうかも知れない。しかし、お前は、芸術の世界で言えば、せいぜい、インチキ画商に過ぎない」


 ある美食家は言う。「食べることが、生きがいだ」と。私は思う。「誰だって、食べなきゃ、生きていけないのは、同じことだろう」


 この国で一番の美食家こそ、何らかの国家的危機が起きた時は、つまらないものを食べて、生きながらえようなんて思わないで、ぜひ、真っ先に餓死する、決断をして欲しいものである。