ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、病気について、かく語りき


 病気だと気付かなければ、それは健康と一緒である。少なくとも、今は・・・。


 人は病気が長引くと、死にたくなる。しかし、実際のところ、思うばかりで、実行には移さない。


 病気の時は、健康しか求めていなかった者たちが、健康になると、あれもこれも、求めるようになる。


 病人の最大の苦しみは、自分が、誰かの負担でしかない、役立たずと、認識することである。


 たまには、大きい病気にかからないと、きっと、その人間は、思い上がった性格になってしまうだろう。


 たまには、大きい病気にかからないと、きっと、その人間は、自分の将来を、真剣に考える機会を失ってしまうだろう。


 小さい病気になると、自分が、家族から、どのように評価されているかが分かる。


 大きい病気になると、自分が、世間から、どのように評価されているかが分かる。


 良い病人は、周囲の者に、感謝することを忘れない。悪い病人は、周囲の者に、悪態をつくことを忘れない。


 最も悪い病人は、周囲の人間に、悪態をつくだけじゃ、飽きたらず、神に対してまで、悪態が止まらない。


 病人は、健康な時より、数段、神を思う。しかし、お見舞いに来てくれる可能性があるのは、神ではなく、死神の方である。


 心の病は、不治の病のようであり、すぐに治る病気のようでもある。


 心の病を、軽んじてはならない。それは、信仰の問題を軽んじてはならないのと、同じことである。


 冗談みたいな話。その男は、40になっても、病気ひとつしなかった・・・しかし、頭髪は、1本もなかった。


 冗談みたいな話。その女は、40になるまで、病気ひとつしなかった・・・しかし、男に愛されたことがなかった。


 冗談みたいな話。上記の健康な40の男女が、結婚をした。その半年後、女は病に倒れ、死んだ。そして、男の頭には、数本の毛が生えていた。


 医師がいなければ(病気だと、診断しなければ)、病人などいなくなる。ただし、素人目で見ても、布団の中にいた方が良さそうな者たちが、街の中を、ウロウロするようになるのは、避けられない。


 ずっと、医師のフリをしていた、ある詐欺師は、いつも、「あなたは病気ではない。健康そのものです」と、いい加減な診察を繰り返した結果、病人たちの寿命を伸ばすことに、成功し、亡くなった時は、ただの詐欺師でありながら、天国へ行けたそうである。


 私が、大病にかかった時は、どうせ、治りもしない、気休めの薬よりも、信用出来る医師からもらう、楽に死ねる薬の方が欲しい。


 しかし、楽な死なんてものが、本当に存在するのだろうか?つくづく、死は、医学の問題である以上に、哲学の問題だと、私は思う。
 

 

イナシデス、不満について、かく語りき


 心に、不満ばかり、溜まっていく者は、たいがい、他者への感謝が足りない者である。


 心に、不満ばかり、溜まっていく者は、たいがい、孤独な状況に陥っている者である。


 心に、不満ばかり、溜まっていく者は、たいがい、知性の欠落している者である。


 不満があるということは、なりたい自分がある、ということである。


 自分を磨くということは、小さい不満を解消していく、ということである。


 不満の多さは、言い訳の多さと、比例する。


 貧しさに不満を持っている者ほど、運で、金が入ると思い込んでいる。


 暇に耐えられない者ほど、忙しさに、不満を持っている。


 家族(一族)に依存している者ほど、家族(一族)に不満を持っている。
 

 恋人に不満があるなら、別れればいい。それが出来ないのは、大した不満ではないからである。


 どんな不満を抱きやすいかは、その者の人生を象徴している。


 同じ不満を、長期間、抱き続けることは、きっと、厄介な、人生の足枷となる。


 不満が服を着て、歩いているような人物には、誰も近寄らないだろう。


 不満には、「憎悪」という、関わりたくない、友人がいる。


 ある不満を大義に、集まって、出来た団体・・・どうせ、ロクなことをしない。


 たいがいの精神的苦悩は、ある種の気取りに過ぎず、大怪我などによる、肉体的苦痛と比べれば、不満のうちに入らない。
 

 単なる極論と、笑われるかも知れないが、極めて健康な者が、不満なんて持つのは、ただの贅沢というものである。


 政治は、個人的不満など、解決してくれない。


 社会(世間)は、個人的不満など、聞いてもくれない。


 神は、個人的不満どころか、人類的不満さえ、聞いてもくれない。

イナシデス、有名人について、かく語りき


 世界中の誰もが、称賛すべきことをして、有名になった人物さえも、とどのつまり、ただの人間に過ぎない。


 一芸で、有名になった人物は、人間として、何かが、欠落している者が多い。あるいは、何もかもが、欠落している者が多い。


 一芸で有名になった人物は、自分は二芸、三芸、持っている、と勘違いしている者が多い。


 金があるというだけの有名人を、あまり、誉め過ぎてはいけない。


 有名人が、みんな金持ちとは限らない。


 残念ながら、今の世の中、人格者というだけでは、有名になどなれない。


 残念ながら、今の世の中、見世物でも始めた方が、きっと、有名になれる。


 一体、どんな有名人が活躍しているかで、その時代の特徴が分かる。


 有名になるということは、神から与えられたチャンス、ではなく、単に、神の悪戯かも知れない。


 有名になるということは、遠い親戚に、集合をかけることと、同じことである。


 有名になるということは、その容姿を、論評されるということである。


 容姿が良い有名人は、更に、有名になれる。


 有名になれば、大衆を騙している気分になる。


 有名になれば、大衆から、監視されている気分になる。


 有名になれば、人間不信に陥りやすくなる。


 有名人・・・本当は、誰も知らないことの方が多い。


 有名人・・・会えば、たいがい、ガッカリする。


 何かで有名になり、月日が流れ、有名人の心得が分かった頃には、大して、有名ではなくなっている。


 本物の有名人は、時代も、国境も超える、突き抜けた魅力を持っている。


 良いことで、有名になっても、悪いことで、有名になっても、大衆にとっては、単に、色違いの的に過ぎない。