イナシデス、仕事について、かく語りき
貴方に、仕事があるということは、世の中の誰かが、貴方を、必要としている、ということである。
貴方に、仕事がないということは、世の中の誰かが、貴方を、必要としているにも関わらず、探し出せていない、ということである。
仕事は、人生そのものではない。しかし、明らかに、その者の人生を左右している。
人間は、何のために、仕事をするのか?他人から、「役立たず!」と、罵られないようにするためである。
自分を適性に評価(過大であっても、過少であっても)出来ない者は、必ず、失業する。
仕事以外の楽しみが、ちゃんとあれば、仕事を選り好みする、必要もない。
仕事と結婚相手は、第一志望とはいかないのが、人生というものである。
今の仕事の、不満ばかりを言う者は、この仕事を辞める、勇気がない者である。
大きな仕事は、小さな仕事を集めたもので出来ている。
大きな仕事が出来る者は、小さな仕事の経験者である。
男が、仕事に集中出来るのは、家庭(妻や母)が、彼を、甘えさせてくれるからである。
男が、家庭より、仕事に夢中になるのは、「家庭には、目標がない」のに、「仕事には、目標がある」からではないだろうか?
どんな仕事であっても、職場の人間関係が良ければ、それは悪い話ではない。
「休日・休憩」のない職場は、あっちこっちで、ケンカが絶えない。
笑顔の絶えない職場は、笑ってなきゃやってられない、仕事が多い。
「生活の中に、仕事のある人」は、「仕事の中に、生活がある人」より、幸福・・・とも、言い切れないかも知れない。
老いて、死ぬまで、仕事をする者は、幸福でもあり、不幸でもある。
非倫理的な仕事が、金になるのは(やる人がいないからであって)、世の中が、案外、倫理的だという、証明である。
大金の入る仕事は、あらゆる意味で、長続きしない。
一芸しかないのに、それを仕事にして、成功する者もいれば、多芸であるがゆえに、転職を繰り返し、成功出来ない者もいる。
イナシデス、戦争について、かく語りき
神が退屈だから、人間に戦争をさせるのではない。人間の方が、神を呼び出したいから、戦争をするのである。
戦争とは、この世で最も、派手で醜い、祭りのことである。
理論上、戦争を肯定するより、否定する方が、簡単だが・・・世の中、理屈じゃないから、どうしようもない。
全ての戦争の大義は、否定することが可能だが、戦争が起きる原因は、大義というより、利益や感情によるものだから、戦争の大義にケチを付けたところで、その戦争を止めることは出来ない。
正義の戦争とは、自国の戦争のことである。内容など、気にする必要はなく、それが決まりなのである。
戦争をして、外国を支配しようとする国は、野蛮だが、支配される国の側も、野蛮だからこそ、国が弱く、戦争に負けてしまうのである。
戦争に負けたことを根に持つ国は、勝った国の悪口を言うよりも、取り敢えず、自国の弱さでも、嘆いていたらいい。
戦争が終われば(体制が変われば)、ウソツキが増える。
戦争の勝利により、外国を統治することは、バカげている。ただの負担に過ぎないから。直接、政治的運営をしない、軍事拠点にすることすら、よく考えなければいけない。
戦争に勝利し、相手国に押し付けるべきは、外交のルール、特に貿易のルールであるべきで、相手国の国内的ルールであってはならない。
戦争で景気を良くしたかったら、自国が戦争をするのではなく、外国に戦争をさせる方が(当事国にモノを売る方が)、景気対策費(軍事費)がかからない。
中立を決め込むことは、戦争を回避する手段というより、隣国たちの草刈り場になる、序章である。
全方位外交とは、友好国をゼロにする外交と、同じことである。
軍事力のない国家は、どれだけ、貿易で儲けても、最後は、強国たちに、その利益を奪われるに違いない。
負けると分かっている戦争は、なるべく早く負けた方が良い。しかし、負けると分かっている戦争でも、いきなり、降服してしまうようではいけない。
戦争で勝ち取るべきもの、それは、一過性の利益ではなく、将来の名誉(子孫にとっての誇り)である。
戦争は、勝っているうちは、やめられない。しかし、どんな強国も、勝ち続けることは出来ない。だから、本当は、勝っている時にこそ、やめなければいけない。
この世に、人間が、数人しかいなくなれば、戦争もなくなり、起きるのは、ケンカだけになる。
人類は、世界各地で、あと、百万回ほど、戦争をすればいい。そうすれば、さすがに学習するから(飽きて、卒業出来るから)。
人間は、立派な自宅を持っていても、どこかに別荘を欲しがる生き物だから、領土拡張のために、戦争をするのかも知れない。
イナシデス、痛みについて、かく語りき
心の痛みは、自分で何とか出来るが、体の痛みは、自分では、どうにも出来ない。
心の痛みも、体の痛みも、死ねば、きっと、解決するだろう。
永遠の痛みなんてない、人生には、死があるから。
もし、死に痛みがともなうならば、人は、もっと、懸命に生きるだろう。特に、自殺者が減るだろう。
頭痛や歯痛がない人生、それだけでも、その人は幸福である。
一年を振り返って、痛い思いをした記憶のない人は、幸福である。
痛みは、その人に、どれだけ理性があるかをみるための、試験である。
強烈な痛みと、長期間、闘わなければいけないほど、果たして、この世に執着する価値なんて、あるのだろうか?
小さな痛みを経験したからといって、大きな痛みの予防になるとは、限らない。
小さな痛みは、厄払いになるから、喜ぶべき?普通に考えて、すこぶるバカげている。
私が痛みで苦しみ、死にそうな時は、宗教家ではなく、たとえヤブでも、医師を呼んで欲しい。
必要以上に痛がる者は、信用出来ない。
痛みを恐れない者は、単なる気取り屋の、大嘘吐きである。
痛みは、どんな立派な人間の自尊心も、破壊出来る。
たとえ、小さな痛みでも、とりつかれたら、あらゆる分野の、どんな名人も、名人ではなくなってしまう。
痛みは、数値化しようが、文学的に表現しようが、正確に、他人に伝えることは出来ない。
人間には、二種類いる、人生において、強烈な痛みがやって来た時、神に謝罪する者と、神に抗議する者と・・・。
大切な人が、痛みと闘っている時、出来ることなら、代わってやりたいと思う者が、本当に、代わることになったら・・・きっと、後悔するだろう。
痛みは、自分だけのものである。他人の痛みなんて、想像は出来ても、実際は分からない。
人間は、痛みのある時しか、本気の反省はしない。そして、どれだけ、反省したところで、痛みから解放される根拠とは、無関係である。