ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、自尊心について、かく語りき

 

 自尊心のない者は、自尊心のある者を責めない。しかし、自尊心のある者は、自尊心のない者を、やたらと責めたがる。

 

 自尊心の問題というものは、結局、誰からも、馬鹿にされたくないという、問題に過ぎない。

 

 自尊心を誇示したい者は、その辺にいる皮肉屋たちの、標的になりたい者でしかない。

 

 高い自尊心は、あちこちに、敵ばかり作る原因になる。低い自尊心は、誰からも相手にされない、原因になる。

 

 自尊心は、高過ぎても、低過ぎても、嘘つき予備軍である。

 

 自尊心のない者は、すぐに、犯罪に走る。自尊心のある者も、時には、犯罪に走る。

 

 自尊心をテーマにすれば、悲劇も喜劇も、どちらでも、書けることだろう。

 

 激しい、自尊心のぶつかり合いは、きっと、誰かを、孤独にする。

 

 自尊心のことばかり、考えている者には、滅多に、チャンスが巡って来ない。

 

 本当に、自尊心の高い男は、女を口説けない。本当に、自尊心の高い女は、男に甘えられない。

 

 自尊心とは、高尚に見える、足枷のようなものである。

 

 誰かのために、自尊心を捨てるという話は、ただの言い訳に過ぎない。

 

 自尊心は、心の病みたいなものである。つける薬があるとすれば、それは「大きな失敗」である。

 

 自尊心を失うのは、簡単である。不幸になればいい。

 

 死を覚悟していない者の自尊心など、たかが知れている。

 

 凡人が、自尊心だと思っているものは、たいがい、虚栄心である。

 

 人間に、自尊心が無くなれば、自殺者の数も、大幅に減るだろう。

 

 平和主義者には、自尊心が感じられない。好戦的な者は、自尊心のことばかり、こだわり過ぎる。

 

 自尊心の高い者は、喋らない、笑わない、人気がない。

 

 人間は、自尊心について、常に考えていなければいけないほど、良く出来た生き物ではない。

 

 

イナシデス、嫉妬について、かく語りき

 

 本妻に嫉妬する愛人は、図々しい。愛人に嫉妬する本妻は、夫を信用していないか、自分に自信がない。

 

 女の嫉妬は、恋愛から、男の嫉妬は、仕事から、生まれることが多い。

 

 嫉妬を全くしない人間は、よほどの好人物か、よほど、思い上がった人物である。

 

 友人を嫉妬してしまうのは、誉められた感情ではないが、特に、珍しい話ではない。

 

 危険を恐れない者の成果を、危険を恐れているだけの者が、嫉妬してはいけない。

 

 嫉妬的感情は、自分を磨くためにあり、他人を、陥れるためにあるのではない。

 

 誰かを攻撃する理由の中に、嫉妬の感情が、大きく占めている時は、その攻撃を、中止しなければならない。

 

 三流以下の人物が、超一流の人物を嫉妬することの、滑稽さ!

 

 超一流の人間と、どうしようもない人間は、誰からも、嫉妬をされることがない。

 

 誰かの嫉妬を、煽るようなことをすれば、その火の粉は、必ず、煽った者にも飛んで来る。

 

 嫉妬深い者が、人を裁くことは、危険なことである。

 

 正義や怒りの中にも、嫉妬という成分。

 

 嫉妬深い人間に、権力を与えるということは、自殺行為というより、心中行為である。

 

 嫉妬深い者は、たいがい、自分を高く見積もっている。

 

 嫉妬深い者ほど、それを必死に隠そうとする。しかし、その者が、嫉妬することは恥ずかしいと、認識しているだけ、マシである。

 

 中途半端な成功者ほど、嫉妬深い者が多い。

 

 身の程を知れば、自然と、嫉妬の感情も、抑え込めるようになる。

 

 嫉妬深い人間は、自己を肯定したいのに、自己を否定している、矛盾した人間に過ぎない。

 

 自由に生きる者が、嫉妬されるのは、仕方ない。しかし、自由に生きているように見えるだけの者が、嫉妬されるのは、同情に値する。

 

 人に裏切られるばかりが、人間不信の原因ではない。人に嫉妬され続けて、苦悩した人間も、やはり、人間不信に陥る。

 

 

イナシデス、教育について、かく語りき

 

 子育てで、何より大切なことは、その子供のために、親が、祈り続けることである。

 

 親はなくとも、子は育つ。しかし、子のいない大人は、子のいる大人と比べて、成長する機会を失う。

 

 子供の教育に、暴力を用いることは間違っている。しかし、残念ながら、間違った行為が、良い効果をもたらす、前例もある。

 

 教育に、アメとムチを用いるのは、有効である。しかし、真の教育とは、アメとムチなんて通用しない、そんな人間を作ることである。

 

 良き凡人は、教育で作れる。悪い天才は、教育では作れない。

 

 誰もが、拍手をするような教育は、えてして、大量の凡人を作るだけの教育に過ぎない。

 

 放任主義は、たまに、天才を生み出す。しかし、万に一人の天才を生み出すためだけに、世の中を、野良犬だらけにする訳にはいかない。

 

「教えたがりの教わりたがり」より、ただの「考えたがり」こそ、優れた人物になりうる。

 

 常日頃、何の疑問も抱けない者に、何を教育しようとしても、無駄である。

 

 誰だって、学校の教師くらいにならなれる。しかし、哲学者にはなれない。

 

 あらゆる芸術の先生は、結局、芸術家に、なり損なった人たちばかりである。

 

 多くの、恋愛の先生気取りは、小理屈ばかりで、実技がともなっていない。

 

 本による教育も悪くはないが、人との関わりによる教育には、かなわない。

 

 知識ばかり得て、品性がともなわない教育は、三流以下の教育である。

 

 大人になるということは、誰かに教わることよりも、自分で気付くことの方が、多くなったということである。

 

 全く、しつけされていない、野良犬や野良猫だって、子孫くらいは残せる。

 

 嫁をしつけたかったら、まず、誉めよ。旦那をしつけたかったら、まず、けなすのをやめよ。

 

 ありとあらゆる、人間の、不幸も、幸福も、神のしつけと思えば、納得せざるえない。

 

 じっくりと、自分自身を見つめよ、そして、自分の周囲も眺めよ・・・そうすれば、さすがの君も、教育の限界について、認めざるえまい。

 

 今日は、特別に、どんな愚人でも、世の中で成功出来る秘訣について、語るとしよう。まず、生まれ変わりなさい、話はそれから・・・。