ギリシャの哲学者ソーザ・イナシデス名言集

ソーザ・イナシデス(1679生~1731没) 日本で全く無名というだけではなく、祖国ギリシャでも忘れさられた存在。簡潔・明快な短文の名手で、大量の日記と書簡に、多くのアフォリズムを残した。

イナシデス、名言について、かく語りき

 

 新しい名言など、存在しない。全ての名言は、誰かの使い古しに過ぎない。

 

 Aという国で生まれた名言は、どうせ、Bという国でも、Cという国でも、別の誰かが言っている。

 

 誰だって、長い人生の中で、一度や二度は、名言を吐いている。ただし、誰も覚えてはいやしない。

 

 名言を生み出す、人間の基礎は、長い不幸を、経験することにある。

 

 逆説的名言を、よく言う者は、とにかく、あらゆる、言い訳が巧い。

 

 誰にでも通用する名言は、よく考えると、言われなくても、分かっている話に過ぎない。

 

 会話の達人とは、常に、小さな名言を、生み出し続けている者のことである。

 

 多弁な者より、口数の少ない者の方が、意外と、名言を貯め込んでいるものである。

 

 含蓄のある名言は、少なくとも、「含蓄がありますね」という台詞を、相手から引き出すのに、役に立つ。

 

 良い名言は、詩のように聞こえ、悪い名言は、説教のようにしか、聞こえない。

 

 英雄の名言なんてものは、たいがい、その周辺の者か、その後の歴史家が作っている。

 

 恋に関する名言は、若き美女がたちが、生み出すのではない。たいがい、老いた年寄りたちが、生み出している。

 

 夫婦生活の名言は、たいがい、晩年に生まれる。新婚生活中に生まれるのは、残念ながら、他人の失笑だけである。

 

 知識のない者から、偶然、出て来た名言は、なかなか、味わい深いものが多い。

 

 狂人を観察するのは、面白い。彼らは、時折、常人には思いつけない、名言を吐くから。

 

 役に立ちそうな名言より、役に立ちそうにない、珍言や暴言の方が、面白さでは、上である。

 

 名言の拡がりは、悪口の拡がりには劣るが、時代を超えてゆくのは、悪口ではなく、名言の方である。

 

 名言を愛する者は、知的な者というよりは、知的に思われたい者であることが多い。

 

  全ての哲学者の名言を知ったところで、哲学者になれる訳ではない。

 

 ただの理屈でしかない名言は、人を感心させることは出来ても、その人の将来まで、変えさせることは出来ない。

 

 

 

イナシデス、成功について、かく語りき

 

 ただの結果論に過ぎない、成功者の言葉を、長時間、聞いていられる者は、きっと、成功しない。

 

 全てのチャンスは、一度切りである。二度目のチャンスは、別のチャンスでしかないから。

 

 成功への道標とは、小さい目標を、いくつも持つ、ということである。

 

 あれもこれも、何もかも欲しがる者は、成功しない。

 

 あれもこれも、何もかも要らない者は、成功しても、意味がない。

 

 人生の丁半博打を避けたがる者は、成功者にも、失敗者にもなれない。

 

 成功も失敗もしない人生を歩んだ者は、どちらかと言えば、成功者である。

 

 失敗は、成功のもとかも知れないし、大失敗のもとかも知れない。

 

 時間を気にしない者は、成功しない。時間を気にし過ぎる者は、忙しない。

 

 理念なき成功者ほど、他人の理念を、自分のもののように語るようになる。

 

 全く、無計画なまま、成功した者ほど、自分の運の良さを、否定したがる。

 

 成功の実感のない成功は、自分で考え、つかんだ成功ではないからである。

 

 親孝行だから、成功したのではない。成功した者は、親孝行したくなるのである。

 

 残念ながら、道徳なき成功者が、その実績を、正当に評価されるようになるのは、きっと、死後のことである。

 

 成功後、もう一段、上を目指すか?それとも、現状維持を心掛けるか?それが、問題だ。

 

 良い成功者は、次世代の成功者を育てる。悪い成功者は、次世代の成功者の芽を摘みたがる。

 

 成功したかどうかは、他人(世間)が決めることではなく、自分が、納得出来たかどうかの、問題である。

 

 失敗している自覚のない者も、成功者の一人と考えれば、世の中は、成功者ばかりになる。

 

 明らかな社会的成功者が、そのまま、幸福な個人とは限らないという、皮肉。

 

 人間は、死の間際まで、健康であったというだけで、半分は、成功者である。

 

 

 

イナシデス、世間(世間体)について、かく語りき

 

 世間体を気にするということは、他人の嫉妬を気にすることと、同じことである。

 

 迷走する者、世間体の奴隷。

 

 世間体など、大事ではない。大事なのは、世間体を気にしているように、見せることである。

 

 世間の代弁者と言われる人は、たいがい、自薦でやっている。

 

 世間を知ってみたところで、得られるのは、処世術であって、教養ではない。

 

 世間を知ろうとすることは、多くの人間と、関わりを持つということである。

 

 世間話をして、出来た仲間は、やがて、世間話をして、仲違いする。

 

 自分で自分を縛っている者ほど、世間に縛られているような、顔をしたがる。

 

  世間体なんてものは、実体がない。あるのは、人間の、感情や価値観である。

 

 世間体を全く、気にしない者は、ある種の野蛮人に過ぎない。

 

 世間の評判を良くしようと思ったら、取り敢えず、欲を捨てることである。

 

 一人で生き抜く覚悟がある者は、世間から逃げ出すのも、いいだろう。闘ってみるのも、いいだろう。

 

 世間と闘っていると思い込んでいる者、たいがい、一人相撲。

 

 全て、世間の言う通りにしたところで、理想の人生も、理想の社会も、完成することはない。

 

 世間は、意志のない者、思想のない者を、次々、踏み潰しにやって来る。

 

 世間が、許さないのではない。世間、世間と、騒いでいる者が、許さないのである。

 

 実は、幽霊に、直接、殺される者がいないように、世間体から、直接、殺される者もいない。

 

 どれだけ、人間が、代替わりしても、世間体の何たるかなんて、変わりゃしない。

 

 宇宙には、人間以上の数の星が存在するが、そこに、世間体のような馬鹿なものは、存在していない。

 

 世界は、神が創った。世間は、人間が作った。